300回目の純情な感情

久しぶりに日記なるものを記す

2010年の8月上旬に休職して以来とても長い間休んだ。

とにかく休んだ。

休んでしばらくは、地獄のように長い時間をどう過ごせばよいのかを分からず、先の見えない不安にかられ、休むこともままならない状態だったかもしれない。

知人にはもう完全に存在が消えたと思われている、そんな劣等感が体・心を支配し、自分の唯一のストロングポイントであった子育てからも、身を置いていた。子供に心配をかけるのもいやだったのもあるし、具合が悪くて休んでいる自分を見せるのが恥ずかしい、辛い、そんなつまらない単純な思考回路しか頭になかったからであろう。

日常生活そのものも破綻していた。

いわゆるうつ状態の症状である不眠、早朝覚醒に伴う起床時間の大幅なズレ。

初期に服薬していたものが体に合わず、(入院前に嫁が緊急で処方した薬リスパダールにより副作用の錐体外路症状で体中が硬直して息ができず死ぬ想いをした。)薬剤も何度も変更したが、9月下旬ころから上手く調整ができた、血中濃度が保たれたのか大好きなバドミントンにも興味がでてきて、年に一度国内で行われる国際大会の最高グレードヨネックスオープンジャパンを観戦しに行ったり、そのついでに浜松町で行われていた年に一度のつけ麺の祭典、大つけめん博に通った。

それと同時に徐々に体を動かすことを始め、10月ごろから定期的にバドミントンを再開した。というのも、ご近所のシニアのバドミントンプレーヤーにたびたびコンビニの喫煙所で昼間からタバコをふかしているのを不審に思い、心配にされ連絡をいただいとこによるのだが。

バドミントンも再開当初は体も全くついていけず、練習後数日は昼まで寝床から体を起こすことができないという惨状であった。そして、起床後から服薬の時間までの無限とも思える時間を持て余していた。字を読んだり音を聴くことは苦にならなかったので、コクシ直前に放置していたドラクエ9を完全にやりこむことに決め、ゲームで目が疲れたら申し訳程度にTOEICの勉強を喫茶店まで散歩して行うことにした。

最初はゲームにのめり込み過ぎ、バラモスやゾーマをレベル99まで上げるのに躍起になり、気が付いたら深夜の4時となり、生活リズムはさらに崩れていったが、段々とその生活にも意味を感じなくなり子供のご飯を作ることを決意し、11月から毎日夕飯を作り始め、朝のお弁当も作り、プレイ時間も900時間を超えたころには朝のiPhoneのアラームを自分で止められるようになった。このころまでがホントにきつくて体重は70キロ近くまでいった。少し背が伸びたが。

そんなこんなで年末となり、私の具合の悪さを噂で聞きつけたバドミントンの恩師麻酔科のI先生から、先生が運営しているバドミントンジュニアクラブの年始の練習のお手伝いに来ないか?という連絡を頂いた。少し戸惑いながらも、1月2日から練習に参加し、県内トップのシニア選手と撃ち合いながら子供達とも触れ合い、少しずつ自信を回復していった。

正月明けにハーバードより帰国していた尊敬するF氏と新宿でつけ麺を食べ、いよいよ調子を取り戻していった。気がする。

年が明けてからは保育園の送り迎えも嫁の代わりに自分でするようにした。人の目はとにかく気になるものだが、気にしても自分は休養中であることには変わりはないし、年度末の収入照会で分かることだし、と割り切った。休養中に入っていた給料で2台目の車を購入し、新しい職場の就職試験にも無事通り、バドミントンや子育てをしながら、そして3月11日に起きた地震による非日常を子供と経験しながらまだ混乱が続く世の中だが自分は仕事復帰をする。

色々感じたことや、考えたこともあるが、何も変わらない日常を過ごせるかという不安もあるが、2浪の夏ごろから自分の存在の小ささや進路が決まらない不安で家から出て、何か生き急いで失恋し補欠合格し、失恋し、気が付いたらかわいい娘のお父さんになり、さらに気が付いたらもう一人のさらにかわいい娘のお父さんになり、嫁が産婦人科医として横浜の激烈なお産事情を支えている傍ら家事とバドミントンに精を出し、命からがら就職先を決め、嫁がマイホームを持つとお金の計算ばかり始める横でストレスを感じながらコクシに受かるための知識を詰め込んでいたら、体調を崩した。躁になって、そして鬱になった。一過性だとしても交通事故にあったような気持ちになりやりきれなさもあった。そして自分を恥じた。

が、なんにしても明日はやってくる。その次の日も、次の日も。

被災地は余震がまだ続き、ほんとうに生きている心地はしないであろう。今朝も横浜でさえ震度3の余震。ニュースでは放射能汚染、原発事故の繰り返し。

しかし、明日もあさってもしあさってもやってくるのである。

元の通りにはならないが復興という未来に向けて明日もあさっても生きていくのである。

経済危機や、報道のありかたや、プロ野球開幕についてあーだこーだ連日繰り返していても、すべての生きる人は明日に向かっていくのである。被災地で透析できない方々も、同様である。

本当に、自分は地震の前に死なないでよかった。地震の後も生きることができる。

勝手に薬を盛った嫁を恨んだこともあったけど、全ては今日のため明日のため、きっといつか。この続きはまた今度。